のぶちゃんマンの生い立ち

いつも笑顔ののぶちゃんマン。悩みなどなさそうなのですが、今にいたるまで、波乱万丈の人生を歩んできました。

それではのぶちゃんマン物語のはじまり、はじまり。

のぶちゃんマンの宝探し

『株式会社のぶちゃんマン』とは面白い社名ですやろ?うちの会社のモットーは『変な人たちがまじめに、楽しく仕事をする変な会社』やねん。“変”といっても、個性のある、ユニークな、という意味。悪い意味やないで(笑)「のぶちゃんマン」はまさに、会社を代表する個性的なキャラクターなんですわ。
この会社は両親から受け継ぎましてね。1948年の戦後まもないころ、私の両親は古い家財道具を売る露天商を始めたんですわ。雨が降ろうが、風が吹こうが、家族全員がその日を生き抜くために、モノを売って糧を得る。そんな、身体を張った力強い両親の姿こそ、幼き頃感じた私の商売の原点なんやと、今、思います。
テレビや雑誌に出まくってるけど、実は元々内向的な性格なんやで。小さい頃、両親を手伝わされるのが嫌で、店の奥で一人遊びをするような子やったなあ。そんな私を見かねて、「こらいかん」と母に連れて行かれたのが剣道教室。期待に応えなければ、と黙々と練習を頑張ったんやけど、、、常に3番手止まり。相手を打ち負かしていくヒーロー像とはほど遠いね(笑)。それでも剣道のおかげで徐々に性格も明るく、強くなっていきました。
しばらくして、父は露天商から家具店へ商売替えしました。私は剣道の稽古を言い訳にして家業の手伝いから遠ざかっていました。それは露天商時代のように泥臭いことはしたくない、という両親への反抗心と周囲への見栄という理由から。今思うと小さなプライドやったなあ、、、。中学、高校と進学するなか、友人たちは大学進学を決めるけれど、私は将来の展望を見出せずに高校を卒業。まったく小学校5年生の時から成長していない“のぶちゃん”やったね。何もせんわけにもいかんから、父の言うまま大阪の家具店にて住み込みにて修業することになったんです。

のぶちゃん、遊び呆けながらも“商売の本音”を見つける。

露天商時代の母のすさまじい商魂話。雨が降ったときなんか、ボロボロのテントの端から雨漏りしてね、雨が母に抱っこされた幼い姉の額に落ちて。雨に濡れても母はなりふり構わずに商品を売る。その姿が「可愛そうやなあ」って、モノを買ってくれるんや…。「モノの価値と売れる、売れないは決してイコールやないんや」と幼な心に商売の真理を知った気がしたな。ある意味、ここが原点かもな。つまり、商売はすさまじいものである。
21歳で実家へ戻り、父に「店を好きなようにしてもいい」と言われたんやけど、まあ夢も志もないんでどうしようかと。当時の家具屋といったら500坪規模が通常。実家は町の家具屋としてもたった18坪。所詮、他の家具屋には太刀打ちできないと、挑戦する前から、自分の理想の店づくりについてはあきらめていました。
当時は高度経済成長期、すごい勢いで日本経済が発展していった良い時代で、うちも例外ではなく、何の努力もせず年商600万円はあり、暮らしは順調でした。が、気持ちの面では家業に魅力を見出せないまま、若い私は力を持て余し気味。刺激を求め、配達の帰りにパチンコや競艇場に通うなど、両親の目を盗んで遊び呆けていました。
しかし26歳で結婚、3人の子どもにも恵まれて、親になると同時に経営者としての責任感も生まれた。バブル時代の追い風もあって家具がどんどん売れて、店を継いで15年目の1988年、35歳の時には年商8000万円までに成長しました。そこでやっと夢や志が生まれたんや。

そこで店を60坪に拡張し、同時に法人化して従業員も雇いました。店の狭さをカバーする為、天井いっぱいまで家具を積み上げて展示、社員と一緒に店を飛び出し、カタログ片手に一軒一軒廻って営業に次ぐ営業。知名度を高める為、テレビショッピングにも出演しました。そして3年後には年商が3億円に達し、業界内外から注目を浴びるようになったんです。
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